「ゲーム」は誰のものか――ウィトゲンシュタインの〈言語ゲーム〉とガダマーの〈遊び〉における主体の脱中心化

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とガダマーの「遊び」をめぐるResearch Note

Research Note

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとハンス=ゲオルク・ガダマーは、ともに「ゲーム/遊び」という語を哲学的に重要な位置で用いています。

本稿では、ウィトゲンシュタインの Sprachspiel(言語ゲーム)と、ガダマーの Spiel(遊び)が、それぞれどのような哲学的役割を担っているのかを比較します。

両者の接点を単なる「ゲーム」という語の共通性ではなく、意味や理解を主権的な主体の所有物としないという「主体の脱中心化」に見いだすことが、本稿の中心的な論点です。

Keywords: Wittgenstein, Gadamer, language-game, Spiel, hermeneutics, subjectivity


目次

1.二人の哲学者と「ゲーム」

ウィトゲンシュタインとガダマーを並べて読むとき、まず目につくのが「ゲーム」です。

ウィトゲンシュタインは『哲学探究』において Sprachspiel、すなわち「言語ゲーム」という語を導入します。

一方、ガダマーは『真理と方法』において、芸術作品の存在論を説明するための中心的概念として Spiel、すなわち「遊び」を論じます。

表面的には、両者とも「人間はゲームの規則に従って行為する」と述べているように見えるかもしれません。

しかし、この理解では両者の重要な相違が失われます。

問いを次のように変えた方がよいでしょう。

なぜ二人は、わざわざ「ゲーム/遊び」という概念を必要としたのでしょうか。

この問いから見ると、ウィトゲンシュタインとガダマーの接点は、ゲームの「規則」にあるというよりも、意味や理解を孤立した主体の内部から解放するところにあることが見えてきます。

2.ウィトゲンシュタイン――言葉を「使用」へ戻す

『哲学探究』第7節で、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という語を導入します。

ここで重要なのは、言語ゲームが新しい言語理論の名称ではないということです。

第23節では、言語を話すことが一つの活動、あるいは「生活形式(Lebensform)」の一部であることを際立たせるために、「言語ゲーム」という表現が用いられています(Wittgenstein, 2009, §23)。

命令すること、報告すること、推測すること、仮説を立てること、物語を作ること、冗談を言うこと、感謝すること、祈ること。

これらはいずれも異なる言語使用です。

ここで言葉の意味は、主体の頭の中にあるイメージや、単語にあらかじめ付着している意味内容から説明されません。

言葉は、何らかの活動のなかで使われています。

したがって、

言語 → 意味 → 行為

という一方向の関係よりも、

言語を使用することそのものが、すでに行為の一部である

と考えた方が、ウィトゲンシュタインに近いでしょう。

「ゲーム」という語は、そのことを見るための哲学的な道具なのです。

3.しかし、ゲームには共通の本質があるのか

さらに興味深いのは、『哲学探究』第66–67節で、ウィトゲンシュタインが「ゲーム」という概念そのものを検討していることです。

チェス、カードゲーム、球技、子どもの遊びなどを並べても、それらすべてに共通する単一の性質を簡単に取り出すことはできません。

そこにあるのは、単一の本質ではなく、重なり合い、交差する類似性です。

ウィトゲンシュタインはこれを「家族的類似性(Familienähnlichkeiten)」と呼びます(Wittgenstein, 2009, §§66–67)。

ここには重要な逆転があります。

「言語ゲーム」という概念を理解しようとして、「ではゲームとは何か」と定義しようとすると、再び本質を探す哲学へ戻ってしまいます。

しかし、ウィトゲンシュタイン自身が求めているのは、その反対です。

ゲームに共通する本質を先に設定して個々のゲームを分類するのではなく、実際に何が「ゲーム」と呼ばれているのかを見る。

したがって、言語ゲームを厳密な規則体系や閉じたシステムとして理解することには慎重でなければなりません。

ゲームという比喩の役割は、言語を固定的体系にすることではありません。

むしろ、言語を人々が現実に営んでいる多様な実践へ戻すことにあります。

4.ガダマー――「遊んでいる主体」から「遊びそのもの」へ

ガダマーの Spiel は、別の方向から主体を揺さぶります。

『真理と方法』第一部でガダマーが遊びについて論じる直接の目的は、芸術経験を観賞者の主観的体験として説明する近代美学から離れることにあります。

通常、私たちは次のように考えます。

「人間がゲームをする」

つまり主体が先にあり、主体が意志によってゲームという活動を行うという理解です。

しかし、ガダマーはここで視点を逆転させます。

遊びが成立しているとき、重要なのは個々のプレイヤーの内面ではなく、遊びそのものの運動です。

プレイヤーは確かに必要です。

しかし、遊びはプレイヤーの心理状態の総和ではありません。

遊びには、参加者を巻き込みながら進行する独自の秩序があります(Gadamer, 2004, Part I, II.1.A)。

キャッチボールを考えてみる

例えば、二人がボールを打ち合っているとします。

一方が完全に自分の好きなようにボールを打てば、ゲームは成立しません。

相手から返ってきたボールに応答し、さらに相手が応答できる仕方で返す。

その往復運動のなかで初めて「ゲーム」が生じます。

したがって、ゲームを支配している主体が存在するというより、

参加者がゲームの運動に参加することで、ゲームが現れる。

と考えることができます。

ガダマーにとって、この構造は芸術経験を考えるうえでも重要です。

作品を理解することは、主体が対象を外から自由に解釈する行為ではありません。

理解する者自身が、作品によって開かれる意味の運動のなかへ巻き込まれるのです。

5.二つの「ゲーム」は同じではない

ここで、両者を安易に同一視してはなりません。

ウィトゲンシュタインの Sprachspiel とガダマーの Spiel は、同じ理論を別の言葉で述べたものではありません。

ウィトゲンシュタインが「ゲーム」という語によって強調するのは、主として言語と活動の結びつきです。

意味を抽象的な記号体系から切り離して考えるのではなく、人間が現実に行っている実践のなかで見る。

これに対してガダマーの「遊び」は、より明確に主体中心的な説明そのものを転倒させる働きを持っています。

芸術や理解を、主体が対象に対して行う操作として説明するのではなく、主体自身を含む出来事として捉えるのです。

ウィトゲンシュタイン
言語を実践の内部へ戻す。

ガダマー
理解する主体を出来事の内部へ戻す。

この違いは小さくありません。

6.それでも両者が交差する地点

それでも、両者には重要な共通方向があります。

それは、意味や理解の出発点を「孤立した主体」に置かないことです。

ウィトゲンシュタインにとって、意味は私が一人で与えるものではありません。

言葉が機能するのは、使用、活動、慣習、生活形式のなかです。

ガダマーにとっても、理解は主体がゼロから作り出すものではありません。

理解する者は、すでに言語、歴史、作品、他者との関係のなかに位置しており、その関係の運動そのものに参加しています。

したがって両者の接点を、

「どちらもゲームについて論じている」

という語彙上の共通性に求めるだけでは不十分です。

より重要なのは、

意味も理解も、主権的な個人によって完全に所有・統御されるものではない。

という方向性です。

ここに、二つの「ゲーム」が交差します。

7.Lawnの比較から一歩ずらす

ウィトゲンシュタインとガダマーの比較については、Christopher Lawnによる重要な研究があります。

Lawn(2003)は、両者が言語を実践として理解する点で近接しながら、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論では言語の歴史性や時間的変化が十分に説明されていないと論じ、ガダマーの「伝統」概念によってその問題を照らそうとしました。

Lawn(2004)でも、言語、規則、歴史性をめぐる両者の比較が体系的に展開されています。

この比較は重要です。

ただし、本稿で焦点を置いているのは「歴史性」ではありません。

別の問いを立てます。

ゲームをしているとき、本当に中心にいるのは誰なのでしょうか。

この問いから見ると、両者の近接性は別の姿を見せます。

ウィトゲンシュタインでは、意味を与える自律的主体よりも、使用の実践が先に見えてきます。

ガダマーでは、理解を遂行する主体よりも、参加者を巻き込んで展開する遊びや理解の出来事が前景化します。

両者は異なる経路から、近代哲学が前提としてきた「意味を所有する主体」の特権的地位を弱めているのです。

8.おわりに――ゲームは「私のもの」ではない

「ゲーム」という語は、一見すると軽い比喩に見えます。

しかし、ウィトゲンシュタインとガダマーにおいて、それは単なる説明上の飾りではありません。

ウィトゲンシュタインの言語ゲームは、言葉を抽象的意味から人間の活動へ戻します。

ガダマーの遊びは、理解や芸術を主体の内面的経験から、それ自体が展開する出来事へと戻します。

両者のゲーム概念を同一視することはできません。

しかし、両者はともに一つの哲学的誘惑から私たちを遠ざけています。

それは、

意味するのは「私」であり、理解するのも「私」であり、言語や世界はその「私」が操作する対象である。

という誘惑です。

ゲームに参加するとき、私は消えてしまうわけではありません。

むしろ私は参加者として不可欠です。

しかし、ゲーム全体を私が所有しているわけでもありません。

言語についても、理解についても、おそらく同じことが言えます。

ウィトゲンシュタインとガダマーが「ゲーム」という語の周囲で接近するのは、まさにこの地点ではないでしょうか。


参考文献

Gadamer, H.-G. (2004). Truth and Method (J. Weinsheimer & D. G. Marshall, Trans.; 2nd rev. ed.). Continuum. (Original work published 1960)

Lawn, C. (2003). Wittgenstein, history and hermeneutics. Philosophy & Social Criticism, 29(3), 281–295. https://doi.org/10.1177/0191453703029003002

Lawn, C. (2004). Wittgenstein and Gadamer: Towards a Post-Analytic Philosophy of Language. Continuum.

Wittgenstein, L. (2009). Philosophical Investigations / Philosophische Untersuchungen (G. E. M. Anscombe, P. M. S. Hacker, & J. Schulte, Trans.; rev. 4th ed.). Wiley-Blackwell.


About this Research Note

本稿は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とガダマーの「遊び」を比較し、両者における主体の位置を検討するためのResearch Noteです。

組織論や経営論への直接的応用ではなく、両者の哲学的概念そのものの比較を目的としています。

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この記事を書いた人

哲学的実践および組織コンサルテーションを研究。ウィトゲンシュタイン、ガダマー、ラカンを中心に、言語・解釈・対話・組織実践の交差領域を検討しています。実務では行政書士・人材育成コンサルタントとして活動し、Research Noteおよび学術論文を継続的に公開しています。

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