「理解しすぎない」という技法――ブルース・フィンク、ウィトゲンシュタイン、そしてELD

Jacques Lacan / Bruce Fink / Ludwig Wittgenstein ― ELDの思想的背景

人材育成の仕事を長く続けてきた私に、大きな影響を与えた人物の一人が、 ラカン派精神分析家のブルース・フィンク(Bruce Fink)である。

フィンクは、ジャック・ラカンの難解な思想を英語圏に紹介してきた研究者であると同時に、 精神分析の臨床技法について極めて具体的に論じてきた分析家でもある。

とりわけ私に強い印象を残したのは、 「理解すること」に対する彼の警戒だった。

相手を「理解した」と思った瞬間に、私たちはその人の言葉を聞かなくなることがある。

目次

「理解すること」が、かえって言葉を聞こえなくする

フィンクは、精神分析において、相手を理解することが必ずしも最優先ではないと論じる。

分析家が、

「この人はこういう人なのだ」
「この発言の本当の意味はこうなのだ」

と早々に理解したつもりになれば、 言い間違い、反復、妙な表現、比喩、曖昧さといった、 実際の発話に現れているものを聞き逃してしまう可能性がある。

フィンクが重視するのは、 相手の言葉を一つの意味へ回収することではない。

むしろ、ある言葉を強調したり、区切ったり、言葉の曖昧さをそのまま残したりすることによって、 本人自身が、それまでとは異なる意味の可能性に出会える余地をつくる。

この考え方は、精神分析の技法論として読んだだけでなく、 私自身の人材育成、1on1、コーチング、組織内対話にも大きな影響を与えた。

フィンクとウィトゲンシュタインが接近するところ

そして、フィンクの技法論を読んでいると、 私は後期ウィトゲンシュタインとの奇妙な接近を感じる。

もちろん、 ラカン派精神分析とウィトゲンシュタイン哲学は同じ理論ではない。

ラカンは無意識を論じる。 一方、ウィトゲンシュタインは、心理現象について考える際に、 その背後にある「内的な何か」を安易に仮定して説明することを繰り返し警戒した。

たとえば、

「この人の内面には何があるのだろう」
「この発言の裏には、どのような心理が隠されているのだろう」

と考える。

しかし、そのような説明を作る前に、 その人が実際にどのような言葉を使っているのかを見ることができる。

その言葉は、誰に対して使われているのか。
どの場面で使われるのか。
どのようなルールの中で機能しているのか。

ウィトゲンシュタインの言語ゲームという観点から見るなら、 言葉の意味とは、頭の中に隠された何かだけではなく、 生活の中での「使用」に現れている。

隠れた内面を説明する前に、
目の前で使われている言葉を見よ。

「ウィトゲンシュタインは内面を探るなと言った」と単純化するのは正確ではない。

しかし、少なくとも私の実践においては、 この姿勢がフィンクの技法論と非常によくフィットした。

フィンクもまた、 分析家自身の「理解」に患者の言葉を押し込めることを警戒する。

相手について説明するのではない。
相手が実際に発した言葉に戻る。

この一点が、私には非常に重要だった。

人材育成で「あなたは自信がない人ですね」と言わない

例えば、若いスタッフが面談でこう言ったとする。

「自信がないんです」

一般的な面談では、ここから、

「どうして自信がないの?」
「失敗した経験があるの?」
「もっと自信を持ったほうがいいよ」

という方向へ進みやすい。

さらに、

「あなたは自己肯定感が低いんですね」
「完璧主義だからですよ」

などと、支援者が相手の内面を説明してしまうこともある。

しかし、この瞬間、 「自信」という言葉が、あたかも本人の内側に存在する心理的実体であるかのように扱われ始める。

私は、こうした対話に以前から違和感を感じていた。

フィンクとウィトゲンシュタインを読むことで、 その違和感を一つの技法として整理できるようになった。

心を解釈するのではなく、言葉を扱えばよいのではないか。

そこで考案したのがELDである

この問題意識から、 私は人材育成の現場で使用できる対話技法として、 ELD(実存的言語対話:Existential Language Dialogue)を考案した。

ELDでは、相手の心の奥に隠れている「本当の意味」を探そうとはしない。

代わりに、 本人の語りを構成している言葉のルールを見る。

本人を縛っている特定の言葉を取り出し、 その言葉がどのような条件で使われているのかを可視化する。

そして、一つしかなかった語り方を複数化し、 本人自身が新しい言葉を選び直せる状態をつくる。

私がELDで重視しているのは、 支援者を「心を読む人」ではなく、 言語の編集者として位置づけることである。

ELDの5つのステップ

  1. サンプリング
    相手の語りの中から、繰り返される言葉や違和感のある言葉を拾う。
  2. 結び目の同定
    「ちゃんと」「普通」「向いていない」「自信がない」 「~しなければならない」など、 本人の行動を強く縛っている言葉を一つ選ぶ。
  3. 文法の解剖
    その言葉の意味を定義するのではなく、 「誰の基準なのか」 「いつから使っているのか」 「どの場面で使われるのか」 と、その言葉の使われ方を調べる。
  4. 地平の水平移動
    別の言い方、他者の視点、否定語を使わない表現などを試し、 一つだった語りを複数の可能性へ開いていく。
  5. 再記述と引き受け
    支援者が正解を与えるのではなく、 本人が「今の自分には、この言葉がしっくりくる」と思える表現を選び直す。

ELDの具体例――「ちゃんとできる自信がありません」

例えば、新人スタッフがこう言ったとする。

「まだ、ちゃんとできる自信がありません」

ここで私は、 「なぜ自信がないのですか」とは聞かない。

まず、実際に発せられた言葉を取り出す。

「今、“ちゃんと”という言葉を使いましたね」

そして尋ねる。

「“ちゃんとできる”とは、誰から見て“ちゃんと”なのでしょう?」

すると、

「先輩から見て、ですかね」

と答えるかもしれない。

さらに聞く。

「先輩から何と言われたら、“ちゃんとできた”ことになりますか?」

すると、

「いや……特に何か言われたわけではないです」

となることがある。

ここが重要である。

本人を縛っていた「ちゃんと」という基準が、 実は誰から明示された基準でもなかったことが見えてくる。

そこで、言葉を横へ動かしてみる

次に、私はこう尋ねる。

「“ちゃんとできるようになる”という言葉を使わないとしたら、 今の状態をどう表現しますか?」

しばらく考えて、 本人からこんな言葉が出てくるかもしれない。

「一人で完璧にできる、ではなくて、
分からないところを確認しながら仕事を進められる、くらいでしょうか」

ここで、語りが変わる。

「私はちゃんとできない」

から、

「私は、確認しながらなら仕事を進められる」

へ。

私は何も励ましていない。

「もっと自信を持ちなさい」とも言っていない。

本人の性格を診断したわけでも、 過去の原因を探したわけでもない。

変えたのは、 語りの文法である。

しかし、言葉の文法が変われば、 その人が次に取れる行動も変わる。

ここに、人材育成におけるELDの面白さがある。

「理解しない」ということ

フィンクから私が学んだ最大のことは、 「理解しすぎないこと」の価値だったのかもしれない。

理解しないというのは、 相手に無関心になることではない。

むしろ逆である。

「この人はこういう人だ」

と分かったつもりになることを一度停止し、 その人が実際に発した一つひとつの言葉に、 もう一度耳を澄ませることである。

そしてウィトゲンシュタインから私が学んだのは、 問題の答えを心の奥深くへ探しにいく前に、 私たちがどのような言葉を使い、 どのような言語ゲームの中で生きているのかを見る という姿勢だった。

フィンクから、「理解しすぎないこと」を学んだ。

ウィトゲンシュタインから、「言葉の使用を見ること」を学んだ。

そして私は、それを人材育成の現場へ移そうとした。

人を変える前に、その人を縛っている言葉を見る

ELDは、精神分析を職場へ持ち込むための技法ではない。

むしろ、臨床的な診断や深層心理の解釈を避けながら、 人材育成の現場で安全に使用できる対話技法として構成したものである。

人を変えようとする前に、 その人を縛っている言葉を見る。

心の奥を説明する前に、 目の前の一語を扱う。

私は現在、 この非常に小さな介入が、 人材育成、1on1、コーチング、組織内対話を大きく変える可能性を持っていると考えている。


参考文献

  • Bruce Fink, A Clinical Introduction to Lacanian Psychoanalysis: Theory and Technique, Harvard University Press, 1997.
  • Bruce Fink, Fundamentals of Psychoanalytic Technique: A Lacanian Approach for Practitioners, W. W. Norton.
  • Bruce Fink, “Against Understanding: Why Understanding Should Not Be Viewed as an Essential Aim of Psychoanalytic Treatment,” Journal of the American Psychoanalytic Association.
  • Ludwig Wittgenstein, Philosophical Investigations.

※ELD(Existential Language Dialogue/実存的言語対話)は、 筆者が人材育成および対話実践の現場で構築している非臨床的対話モデルです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

哲学的実践および組織コンサルテーションを研究。ウィトゲンシュタイン、ガダマー、ラカンを中心に、言語・解釈・対話・組織実践の交差領域を検討しています。実務では行政書士・人材育成コンサルタントとして活動し、Research Noteおよび学術論文を継続的に公開しています。

目次