ガダマーはラカンをどう見たのか――解釈学と精神分析は、実務の対話で交差しうるか

RESEARCH NOTE 001
Hans-Georg Gadamer × Jacques Lacan
Dialogical Practice / Language / Interpretation

※本稿は研究過程における検討ノートです。完成した論文ではなく、今後の文献調査・研究によって内容を修正する可能性があります。


最近、ガダマーとラカンのあいだに、私がこれまで十分に考えてこなかった接点があることを知った。

私はこれまで、ガダマーを主として「理解と対話」の哲学者として、ラカンを「言語・主体・欲望」の理論家として読んできた。

両者はともに、私の実務――人材育成、コーチング、カウンセリング、組織における対話支援――を考えるうえで重要だったが、二人を直接接続することについては慎重だった。

しかし調べていくと、ガダマーとラカンの関係は、まったく無関係というわけではなかった。

目次

ガダマーのゼミから始まったラカン研究

重要なのは、ドイツの精神科医・精神分析家ヘルマン・ラングである。

ラングの回想によれば、1960年代初頭、ガダマーが言語をテーマに行っていたゼミにおいて、ラカンのテクストが検討対象となった。

ラングはそこでラカンに出会い、その後、ガダマーのもとでラカンの言語論と精神分析について研究を進めた。

その成果は、1973年に刊行された Die Sprache und das Unbewußte: Jacques Lacans Grundlegung der Psychoanalyse へとつながっている。

さらに、その英訳版 Language and the Unconscious: Lacan’s Hermeneutics of Psychoanalysis には、ガダマー自身による短いAfterwordも収録されている。

したがって、ガダマーがラカンを主要著作のなかで体系的に論じた、とまで言うことはできない。

しかし少なくとも、自らの哲学的解釈学と言語論の近くで、ラカン派精神分析との接点が研究されることを見ていたことは確かである。

私は、この事実そのものを非常に興味深く感じている。

「言語は単なる道具ではない」という接点

ガダマーにとって、言語は、すでに出来上がった世界を人間が説明するために使用する単なる道具ではない。

私たちは言語を使っているだけではなく、すでに言語のなかで世界を理解している。

つまり、理解そのものが言語的な出来事なのである。

ガダマーは理解を、主体が対象を一方的に把握する操作としてではなく、他者との対話のなかで生じる出来事として捉える。

一方、ラカンにおいても、言語は主体が自由に操る透明な道具ではない。

むしろ主体のほうが、すでに言語の秩序のなかに位置づけられている。

私たちは「自分が言いたいこと」を完全に支配しているわけではない。

発話のなかには、本人が意図した以上のものが現れる。

反復される語、言い間違い、比喩、奇妙に固定された表現などに、話者自身が十分には把握していない関係が現れることがある。

もちろん、ガダマーとラカンが同じことを言っているわけではない。

むしろ、この差異が重要なのだと思う。

ガダマーは、対話のなかで意味が生成し、理解が変容する可能性を考える。

ラカンは、その対話に参加している主体そのものが、すでに言語によって分割され、自らの発話の完全な主人ではないことを考える。

この二つを安易に統合するべきではない。

しかし、対話支援を実際に行っている私には、この二つの視点を同時に保持することに大きな可能性があるように思える。

実務では何が起きているのか

例えば、組織の面談で、ある職員が次のように語ったとする。

「私はリーダーに向いていません」

通常のコーチングであれば、

  • なぜそう思うのか
  • 「リーダーに向いている」とは、その人にとってどのような状態なのか
  • 別の見方はできないか

と問いながら、本人の意味づけを広げようとするだろう。

これは重要な働きである。

ガダマー的に考えるならば、この対話によって、本人と支援者の双方がもっていた前理解が問い直され、新しい理解の地平が生じる可能性がある。

しかし、ここにラカン的な視点を加えると、さらに別の問いが生じる。

そもそも「リーダーに向いていない」という言葉は、どこから来たのか。

本人が自分で作った言葉なのか。

過去に上司から言われた言葉なのか。

その組織のなかに「リーダーとはこういう人間である」という暗黙の語りが存在しているのか。

さらに言えば、

「向いていない」という語が本人の経験を記述しているのか、それとも、その語によって本人の経験そのものが整理されてしまっているのか。

という問いも生じる。

ここには、単純な「認知の修正」だけでは捉えきれない問題があるように思う。

「理解すること」と「言葉に耳を澄ますこと」

私は対話支援の現場で、支援者が相手を「理解しよう」とするほど、かえって相手の言葉を早く意味づけてしまう危険を感じることがある。

例えば、

  • 「つまり、あなたは承認されたいのですね」
  • 「本当は自信がないのですね」
  • 「それは過去の経験が原因なのでしょう」

といった理解である。

こうした理解は、ときに役立つ。

しかし、それが早すぎると、支援者自身が相手の語りの作者になってしまう。

これは、私がこれまで考えてきた「意味の非著者性(Non-Authorship of Meaning)」の問題ともつながっている。

ガダマーから学べるのは、理解とは他者を自分の枠組みに回収することではなく、問いに開かれた対話のなかに身を置くことだ、という点である。

そしてラカンから学べるのは、話者自身さえ、自らの発話を完全には所有していない、という点である。

そう考えると、対話支援者の仕事は、

「相手の本当の意味を見抜くこと」

ではなく、

「いま、この対話のなかで、どの言葉がどのように働いているのかを共に見ること」

なのかもしれない。

組織支援にも接続できるのではないか

この問題は、個人へのカウンセリングやコーチングだけの問題ではない。

組織では、

  • 「主体性がない」
  • 「責任感がない」
  • 「管理職意識が足りない」
  • 「普通はこれくらいできる」

といった言葉が頻繁に使われる。

これらは一見すると、個人の性質を記述する言葉である。

しかし、本当にそうなのだろうか。

ある組織のなかで長年反復されることによって、それ自体が社員を見るための「文法」になっている可能性がある。

ガダマーから考えるならば、それは組織が共有してきた前理解や伝統の問題として読むことができる。

ラカンから考えるならば、それらの語は単なる記述ではなく、主体をある位置に置くシニフィアンとして働いている可能性がある。

そして、ここにウィトゲンシュタインを加えるならば、

その語は、どのような言語ゲームのなかで、どのような規則に従って使用されているのか。

という問いが生じる。

ここに、私が今後研究していきたいウィトゲンシュタイン、ガダマー、ラカンの交差点があるように思う。

まだ結論はない

現段階で、私は「ガダマーとラカンを統合すれば、新しい対話技法ができる」と主張したいわけではない。

むしろ逆である。

二人の差異を維持したまま、実践の現場に置いてみたい。

ガダマーは、他者との対話のなかで理解が生成する可能性を考えた。

ラカンは、主体が自らの発話を完全には統御できないことを徹底して考えた。

この二つを同時に考えると、

対話によって理解は変わりうる。
しかし、「理解できた」と思った瞬間にも、なお理解からこぼれ落ちるものがある。

という緊張関係が見えてくる。

私は、この緊張関係が、カウンセリング、コーチング、人材育成、そして組織コンサルテーションにとって重要なのではないかと考え始めている。

これはまだ仮説である。

だからこそ、今後のResearch Noteで少しずつ考えてみたい。


References

  • Hermann Lang, Die Sprache und das Unbewußte: Jacques Lacans Grundlegung der Psychoanalyse, 1973.
  • Hermann Lang, Language and the Unconscious: Lacan’s Hermeneutics of Psychoanalysis, trans. Thomas Brockelman, Humanities Press, 1997.
  • Hans-Georg Gadamer, Truth and Method.
  • Hans-Georg Gadamer, “Language and Understanding.”
  • Jacques Lacan, Écrits.
  • Jacques Lacan, The Seminar of Jacques Lacan.
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この記事を書いた人

哲学的実践および組織コンサルテーションを研究。ウィトゲンシュタイン、ガダマー、ラカンを中心に、言語・解釈・対話・組織実践の交差領域を検討しています。実務では行政書士・人材育成コンサルタントとして活動し、Research Noteおよび学術論文を継続的に公開しています。

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